こんにちは。moruco(@morucokyoiku91)です。
この記事では、幼少から現在に至るまでの経歴などをご紹介します。
かなり長いので、気になる方は心してご覧ください!
幼少時代~小学生
保育園に通っていた頃、私は自分のことを「私」と呼ぶのがなんだか気恥ずかしくて「こっち」と言っていました笑
たとえば、複数人で鬼ごっこをしているとき
「私も仲間に入れてー!」ではなく
「こっちも仲間に入れてー!」といった感じに。
この頃の私は女友達より男友達が多く、学校が終わると男の子と一緒に外を駆け回るような活発女子!でした。そしていわゆる問題児でもありました。 警察にお世話になったことはないですが、近所の家の花をもぎ取ったり、ゴミ捨て場に棄てられてるフライパンを持ち出して怒られたり………厄介なことをたくさんたくさんしていた時期です。
中でも、最も大きな問題は初恋相手の男の子とのことです。(後述しますが、この男の子のことは今でも私の人生に大きく関わっています)
私の初恋相手は、同じ保育園に通っていたMくんでした。
当時、保育園の押し入れ?に二人で隠れてちゅーをした、とかいうのがたちまち噂になり(本当かどうかは覚えていません笑)、その後は色々と騒がれました。
小学校中学年の頃、今でも最も後悔し、人生でひとつだけ消せる過去があるとしたら、
真っ先にこのことを挙げるほどの出来事がありました。
内容は酷すぎるのと心苦しいので書きませんが、本当に酷いものでした。
私の人生を大きく変えてしまった出来事でした。
その当時の私はそれが良くないことだとわからず、ただただ遊び半分で楽しくてやったことです。
でもこれがきっかけで、後々の私の人生を大きく変えました。
私が今、子どもの発達心理や人格形成に関心を持っているのは、この出来事がきっかけです。
「どうして私はあんなことをしてしまったのだろう」
この思いが、ずっとずっと、ずーーっと消えません。
おそらくこの出来事がきっかけで、私はいじめに遭うようになりました。
毎日一人で休み時間を過ごしたりと、辛い日々でした。
]そんな中、救ってくれた子と卒業まで一緒に過ごしました。その子は私立の進学校へ行ってしまったこともあり、今は連絡を取っていませんが、私を救ってくれた子です。
中学校
中学校に進学するのは、その周辺の小学校三校から進んだ人たちでした。
私は小学校での例の出来事があり、
「他校からきた人たちに知られなければいいな…」
と、とてもビクビクしていたんです。
でもやっぱり入学してからすぐ、そのことは他の小学校から来た人たちにも伝わってしまい……
ある男子にみんなの前でかなり叩かれて、それ以降私は
「できるだけ波風立てないように」
「みんなと同じ色に染まれるように」
そうやって、人の顔色を伺って過ごすようになりました。
でも、友達と過ごした楽しい時期もあります。
部活は吹奏楽部に入部し、トロンボーンという楽器を担当していました。
でも、心の奥底ではなんだか晴れない気持ちが続いていたんです。
友達と一緒にいるのに、心は一人。
今でも好きな歌手の一人、シンガーソングライターのaikoの歌詞でとても共感したのが、
『星のない世界』の
「過去も未来も心の底はいつも一人だと思ってたから」
という部分です。
「あー。私はこれだ」と聴くたびに思っていました。
その歌詞の続きには、
「全部我慢してやっと溢れ出した涙に 本当の恋を初めて知った」
と続き、「そんな恋してみたいなぁ…」とぼんやり思っていた時期でもあります。
中学校、特に女子は「派閥」が激しく、色々勃発していました。
そんな私は中学の卒業文集で、他とは一線を画した文章を書きました。
ほとんど全員が学校生活で思い出に残ったこととして「部活」「修学旅行」のことを書いている中、
私は「先生方への感謝の気持ち」を書きました。
「周りと同じような文章は嫌!」という反発心と
「心の底はいつも一人」という気持ちの表れなんだろうなと思います。
高校生
私には兄と姉がいて、兄は頭が良く、スポーツもできて、人徳もあるような本当にクラスの中心人物という感じ。
姉は愛嬌があって人当たりが良く、みんなから愛されるような人。
私は「みんなから愛されるキャラ」にはなれないと悟り、
兄のように生きたいと大学進学を目指して地元の進学校に合格しました。
高校時代も、中学と変わらず、
「みんなと同じ色に染まれるように」して過ごします。
勉強はほどほどに、中学と同じく吹奏楽部での活動に没頭する日々です。
吹奏楽コンクールは、金賞・銀賞・銅賞の3つのうち必ずどれかに表彰されるのですが、正直なところ、弱小校で毎年「銅賞」でした。
でも努力の甲斐あってか、文化部の全国大会である「全国高等学校総合文化祭」に推薦を受けたこともあり(諸事情により辞退しました…)、私たちの代で銀賞を取るまでに成長しました。
また今も恒例行事として続く定期演奏会をスタートさせたのも私たちの代です。
こんな感じで部活漬けの毎日でした。
でも高校3年生のある夏の日、養護教諭の道へと進む最初のきっかけとなったある出来事が起こります。
当時仲良くしていた子となぜか仲が悪くなり、それと同時にクラスの女子ほぼ全員から距離を置かれる(置かれたように感じた)ことがありました。
それはしばらく続き、とても苦しくなった私は退学することを思い立ちます。
(文字だけを見れば「かなり早まったし急だな(‘_’)」と思うのですが、思春期真っ盛りのこの頃は毎日の学校生活がすべてで、ハブられてるように感じている日々が苦痛で仕方なかったのです)
朝早く学校へ行き、教室にある自分の荷物を全て音楽室へ移動させ、教室を空にしました。
そして保健室へ行ったのです。
でも朝の時点で私の荷物がなくなってるのを不思議に思った人が先生に伝え、1時限目から担任、養護教諭、私の三人で保健室で話し合いが始まりました。
結局私は学校を辞めずに済み、友達ともなんとかなりましたが、部活で一緒に仲良くしていた友達とは距離を置かれたままとなってしまいました。
でもなんとか卒業までの残り半年を過ごし、無事に高校を卒業することができました。
中高で共通して言えることは、自分自身を抑圧して過ごしていたということです。
自分らしさよりも、周りに求められること、周りと同じものを選ぶようになっていました。
浪人生
実は私、大学へ進学するまでに数年間まわり道をしています。
兄は有名な難関国立大学へ自己推薦で現役合格、家庭が経済的事情から国立大学への進学しか認めてくれなかったのですが、
「兄も合格できたんだから私もできる!!」
という変な自信があり、私も簡単に大学合格できると思い込んでいたのがそもそもの大間違いです。
高校時代は将来まだ特に進路も決まっていなく、
ただ漠然と「数学ができないから文系」へと進み、なんとなく「心理学を勉強したいなー」程度でした。
そんな私がセンター試験が終わった後の保健の授業でエイズの勉強をした時、
「エイズの薬を開発したい!」
と急に思い立ったのをきっかけに、浪人の道を選びました。
ただ文系から国公立の薬学部となるとかなりハードルが高く、数学も本当に苦手でできなすぎなので、最終的には心理学の道に落ち着きました…(笑)
1年目は宅浪で、国公立で心理学を学べるラインまでいかず、失敗。
2年目からは親に頼み込んで予備校へ行き、
「2浪するなら、資格を取って働こう」と思い、
最終的に心理学を活かせる職業として「作業療法士」と「養護教諭」まで絞られ、小学生の頃から保健室が好きで、特に高校時代の養護教諭にお世話になったこと、
「高校の養護教諭のような女性になりたい!」
などを思い、養護教諭の道を志すようになりました。
養護教諭になるためにはいくつかの方法があり、
教育学部や看護学科、心理学科などからでも資格をとることは可能です。
また看護学科の中でも4年で取れるところもあれば、卒業後に「養護教諭特別別科」というところに進学して取るケースなどさまざまです。
中でも教育系から取るか、看護系から取るかは意見が分かれます。
「教育系から進むと傷病手当がきちんとできないのでは」
「看護系から進むと教育という面できちんと理解できないのでは」
などといわれているためです。
私は養護教諭はやはり先生なので、教育系から取りたいと思う一方で、
傷の手当など看護系のこともしっかりと学びたいと考え、
「教育学部養護教諭養成課程」に進もうと思いました。
この養護教諭養成課程であれば、教育はもちろん、医学看護系のこともしっかり勉強できるからです。
実際、私たちの学科は総合大学の中でもかなりハードな学科のひとつといわれています。
志望校は、高校の養護教諭におすすめされ、
私もその先生から学びたいと思い、難関校、かつ、養成課程では最も学力の高い大学を選びました。
2年目の浪人生活は、毎日朝から晩まで勉強漬けでしたが、
1年目と違い「毎日人と話せる」ことが嬉しく、周りの人たちにかなり救われました。
でも結果は不合格。最低合格点のひとつ下でした。
本当に悲しく、悔しく、国立大学の前期日程の合格発表の日、
あの3月6日は鮮明に覚えています。
一人で部屋にこもり、
ひたすらBUMP OF CHICKENの『プレゼント』をリピートしていました。
ティッシュひと箱は余裕でなくなりました。
私の地元はかなりの田舎で、浪人生すら珍しく、
女子の2浪生なんて少なくとも私は聞いたことありません。
まして、3浪なんて…もう…
「生きてる価値あるんですか?」ってくらいどん底でした。
全国的に見ても、3浪なんて医学部か美大くらいじゃないですか?
でも私は違うんです。難関校とはいえ、普通の、ごく普通の国立大学の「教育学部」なんです。
2浪の予備校生活はそれはキツイのは当たり前でしたが、3浪なんて一切考えられず、頭の中は真っ白でした。
心も体も、ボロボロです。
でも私は、どうしても、どうしてもこの地元で終わりたくなかったんです。
たぶん私は、地元から離れて、新しい場所で
「自分の強み」「自分の価値」を見つけたかったんだと思います。
このままここで就職することは、私には絶対にありえないことでした。
3年目なんて考えられませんでしたが、
1~2週間ほどほぼ誰とも口をきかず、部屋にこもって考え、
親に頭を下げて、自分の気持ちを伝えると、了承してくれました。
今でも、本当に本当に感謝しています。
その後は数か月間、何を食べても、ほんの少しだけでもすぐに腹痛でトイレに駆け込む日々です。
予備校には一応籍を置いていましたが、行けたり行けなかったりを繰り返していました。
結果的に、志望校は安全圏ではなかったために断念せざるを得ず、
某国立大学へと進学することとなりました。
浪人したのは、言うまでもなく自業自得です。
3年も自由にさせてくれたことは、親には本当に頭が下がる思いです。
お世話になった高校の養護教諭からは3年目のある日、自宅に手紙が届きました。
その内容は「有名校の、『〇〇大学の大学生』になりたいだけなんじゃないか」というものでした。
前述したように、養護教諭になるのであれば、いくつもの道があります。
それに、もちろん医学部などよりもはるかに、はるかにハードルはかなり低いです。
それなのに3年もフラフラしていることに違和感を持ったんだと思います。
思い当たるところもあって、心が痛みましたが、逆に励みにもなりました。
大学生
大学生になったら、吹奏楽部と運動系サークル(よさこいなど)を兼部しようと思っていました。
でも、春休み中に旅行していた大学生と私の親戚の人が偶然出会い、私はその大学生の所属する部活に勧誘されることになります笑
それが、医学部ラグビー部でした。
医学生のみで構成される「医科学生総合体育大会」で、毎年連覇または優勝争いをしている伝統校でした。
(大会は東日本と西日本と分かれており、一部のスポーツでは全国版もあるみたいですが、ラグビーはありません)
正直当時の私はラグビーに全く興味がなく、吹奏楽を続けたいと思っていたのですが、
先輩が入学前から引っ越しの手伝いなどを手伝ってくれていたことなどもあり、
とりあえず見学に行きました。
見学に行った初日、私は衝撃を受けます。
素直に「かっこいい!」と思いました。
普段は気さくに話してくれてる先輩たちが懸命に練習している姿に心を打たれ、私はこの部活のマネージャーとなりました。
1年生の頃は、毎月のように飲み会(合コンを含む)に参加し、お酒も弱くはないので、なぜだか周りのみんなからは「お酒に強い」というイメージをもたれていたよう(笑)
大学で最も印象的なことは、将来の進路を決めたことでした。
私は養護教諭を目指していましたが、「学校の先生」「学校のあり方」について疑問をもっている一人です。
その例として、学校には本当にいろんな子どもたちが通っています。
たとえば勉強が得意な子、運動が得意な子、絵が得意な子、逆にそれらが苦手な子。
学校の先生は、小学校、中学校、高校、そして大学と「学校」しか経験せずに先生になる人が大半です。
私はそういう環境しか経験せずに先生になるのが嫌でしたが、
人よりもまわり道をしていることもあり、これ以上先延ばしにするのは受け入れられず、
「大学在学中に色んな人の価値観を知りたい!色んな国に行って色んな世界や人を知ってから養護教諭になろう!」
と思い、世界一周計画を企てます。
でも部活は週3日、毎週末の練習や試合などもあり、自分の時間を思うようにとれません。
そのため、私は大好きだった部活を退部することにしました。
バイトも一時期は3つ掛け持ちしていました。
そんな中、初めてスマホを持つようになり、Twitterで色んな活動をしている人を見つけます。
夜行バスで片道10時間以上かけ、東京に出て、社長や個人事業主など色んな立場の人に会いました。
そういう人たちと接する中で、絵や書道を発信するようになりました。
本当に多くの人たちに見てもらえて、たくさんの賞賛のお言葉をいただきました。
展覧会や販売もしていました。(国内・海外)
自分の絵や書道を見て、
「本当に尊敬します!すごい!」
「私も、もるこさんみたいになりたいです!」
「本当に感動しました。元気が出ました!」
などの言葉をいただき、
「私の生きる道はこれだ」と、心の奥底から湧き上がってくるものを感じました。
そして私は、大学3年の秋に両親へ
「大学を辞めて東京に行きたい。この道で生きていきたい」
と話しますが、もちろん猛反対です笑
結果的に私は兄からの説得もあり、大学に残ることになりましたが、
今ではきちんと卒業を迎えることができてよかったと思っています。
もし、大学を辞めて販売などを続けていたら、今どうなっていたかわかりません。
(今はアートを少しお休みしていますが、また復活しますよー!)
就活もせずに東京へ行く予定でしたが、
「新卒っていうブランドも今だけだし、何社か受けとくかー」
という軽い感じで受けたら
5社中3社受かり、そのうちの1社に就職することになりました。
私は「ものづくり」に携わりたいと思ったので、
未経験からできる制作の仕事に絞って受け、
今在宅でも続けているライターの仕事へとつながっています。
社会人
2回の入院、1回のドクターストップを受けてます(^_^;)
それもあって、転職は正社員では1回、派遣社員では2回しています。
大学時代に「未経験からできるせいさくのしごと」の中で、私が最もやりたいものに近かったのはライターという仕事でした。
某大手企業が販売しているシャンプーの新発売イベントや、社長・人事の人たちへの取材執筆、医療従事者向けの記事執筆などさまざまなことに携わってきました。
現在
2017年に結婚、2018年に出産し、男の子を育てながら在宅でライターをしています。
旦那の帰りが遅いこと、毎週のように出張があるため、基本的にワンオペ育児をしています。
私の実家も旦那の実家も遠方で、普段頼れる人が近くにいません。
新築を建設中で、今年末に引っ越します。
毎週末にハウスメーカーとの打ち合わせが半年ほど続いているため、なかなか落ち着かない日々を過ごしています。
Mくんとのこと
Mくんとは偶然にも保育園~高校までずっと一緒でした。
もしも私があのとき、あんなことをしていなかったら…
私は今結婚し、一児の母で、Mくんもまた結婚し、一児の父親です(地域の広報誌で知りました笑)。
でも、もし、私があのとき、事を起こしていなかったら、二人の未来は変わっていたかもしれない。
遊び半分でやってしまったことが、こんなにも深い傷になるなんて、当時の私には知る由もありません。
今でも、月に1度、多いときは週に1度くらいのペースで、Mくんとの夢を見ます。
もちろん、こんなにも考えているのは私だけで、心苦しくなっているのも私だけです。
でも、Mくんのことを考えては、「どうしてあのとき…」という気持ちがどうしても消えないのです。
私は地元を出て関東に住んでいますが、Mくんは大学進学後、地元に戻り実家で家族と暮らしています。
そのため、地元に帰省する度にいつも思い出してしまうんです。
同窓会でもない限り、もうきっと会うことはないけれど、Mくんのことを思い出すと苦しくなる自分がいます。